古事記の「飛鳥」について(1)

 なぜ「飛鳥」と書いて「アスカ」と読むのか。だれしもが疑問に思うところであろう。この問題に対しては、いささか迂遠ながら、まず最初に「飛鳥」という文字列の出典を明らかにしておく必要がある。一定の体系性を備えている古事記において、「飛鳥」に関し、どのような体系性が見出されるか。その体系性の出典を明らかにするところから始めたい。


   (1)姓を正し氏を撰びて、遠飛鳥に勒めたまひき。[序文]
   (2)飛鳥清原大宮に大八州を御めたまひし天皇の御世に曁りて、[序文]
   (3)次に、大中津日子命は、〈……・飛鳥君・牟礼之別等が祖ぞ〉。[垂仁]
   (4)「近飛鳥」の命名説話。[履中]
   (5)「遠飛鳥」の命名説話。[履中]
   (6)(允恭天皇)、遠飛鳥宮に坐して、天の下を治めき。[允恭]
   (7)(顕宗天皇)、近飛鳥宮に坐して、天の下を治むること、捌歳ぞ。[顕宗]
   (8)猪甘老人を「飛鳥河」の河原で斬る話。[顕宗]


 古事記における「飛鳥」の登場箇所は以上。さしあたり序文を除いてみれば、氏族名が一つ(飛鳥君)、地名が三つ(近飛鳥・遠飛鳥・飛鳥河)である。このうち氏族名の「飛鳥君」は、特に「君」に作る点に古事記の独自性があるにせよ、実在性が高い。飛鳥池遺跡出土木簡(七世紀後半)に「飛鳥尼麻呂」「飛鳥部身閉」などの名前が確認できる。たとえば平城宮出土の荷札木簡に「吉備国品治郡」、文書木簡に「品遅国前」とあり、平城京出土木簡に「品遅部」とあり、さらに上田部遺跡出土木簡に「品遅部君」とある。この状況で、古事記の「吉備品遅君」を架空のものと考えることは難しいだろう。これと同様に見てよい。木簡にも正倉院文書にも「飛鳥部君」は確認できないが、時として「部」を外す古事記の傾向に鑑みて、やはり「飛鳥君」は実在した氏族(ないし今まさに実在する氏族を念頭に置いて古事記が記した氏族名)と見ておくべきである。


   木簡「品遅○○、品遅部、品遅部君」……記「品遅部、品遅部君、品遅君」
   木簡「飛鳥○○、飛鳥部」…………………記「飛鳥君」のみ


 それに対し、顕宗天皇の宮都としての「近飛鳥」、允恭天皇の宮都としての「遠飛鳥」、猪甘老人を斬った場所としての「飛鳥河」、これら三者は実在性が極めて低い。允恭天皇の時代として記紀が描く時代(いわゆる倭の五王の時代)に「飛鳥」の二文字に作る地名が存在していた確証は何も無い。稲荷山古墳出土鉄剣銘文に「斯鬼宮」とあるが、この表記は継承されていない(古事記は「師木」に作り、日本書紀は「磯城」に作る)。また、允恭や顕宗に該当する大王は存在したかもしれないが、両天皇の宮都の場所に限らず、古事記の範囲の天皇の宮都の場所の大半は現在も考古学的に特定されていない。


   【新編全集の頭注】この「飛鳥河」は、河内(大阪府の一部)の川。
   大和の飛鳥川が有名だが、「近飛鳥宮」の所在からみて、河内の
   川と考えられる。(※神野志氏らしからぬ文面)


 古事記が「飛鳥河」に作る河そのもの(正確には候補となる河そのもの)は、古くから存在していたに違いないが、多分に物語上の人物である「猪甘老人」を斬った場所としての「飛鳥河」の河原は、あくまでも古事記の物語上、あるいは文字列上に存在すると言わなければならない。既に述べた通り、飛鳥池遺跡出土木簡に「飛鳥部身閉」などの人名が見られることから、仮に古事記が存在しなくても、当時において「飛鳥河」という表記は有り得たし、候補となる河そのものの幾つかが「飛鳥河」という表記で通用していた可能性も有る。また、幾つかではなく、一つが「飛鳥河」という表記で通用していたケースにおいては、古事記の「飛鳥河」が何処であるかは当時の読者にとって自明である。しかし、「猪甘老人」が斬られた物語が「物語と言うしかない物語」である以上、このケースにおける当時の読者も、「飛鳥河なら知っているが、猪甘老人が斬られた話は初耳」ということではなかったか。「猪甘老人が斬られた飛鳥河については知らない」ということではなかったか。まして、古事記筆録時点より以前に遡って「飛鳥河」という表記が特定の河の表記として通用していた証拠は一つも無い。現時点で我々が読んでも、「近飛鳥」の河なのか、「遠飛鳥」の河なのか、必ずしも特定できない河として古事記の「飛鳥河」は在るが、この現在の状況は、当時においても同じだったのではないか。少なくとも同じではなかったことを証拠づける材料は無い。だとするならば、特定できないものとして、あるいは特定する必要のないものとして、古事記の「飛鳥河」は描かれている、と見ておくべきだろう。允恭天皇の宮都や顕宗天皇の宮都が現在に至るまで特定できないのは、もともと特定できないものを特定しようとしているからではないのか。

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