日本の正月について(獅子舞の由来)
インドにおいては、当該月の満月の日の宿名を、その当該月の名称としている。「たとえば春分のころなら太陽は婁宿にあるからその時に満月になれば月は180度離れた角宿(Citra)にあることになる。したがって春分近くの月を角月(Caitra)と呼ぶのである」(矢野道雄『密教占星術』)と説明される通り。
朔から望までの15日を「白分」(Sukla)と言い、望から朔までの15日を「黒分」(Krsna)と言う。そして一般には、白分の1日から15日までと、続く黒分の1日から15日までを合わせて、これをひと月としている。新月の日から新月の日まで(即ち、白分・黒分の順)をひと月とする暦である。但し、この他に、満月の日から満月の日まで(即ち、黒分・白分の順)をひと月とする暦も存在する(たとえば大唐西域記に記されているものが該当)。
【インドの月名】(括弧内は漢訳)
・Chaitra(角月)…………中国の二月
・Vaishākha(氐月)………中国の三月
・Jyaishtha(心月)………中国の四月
・Āshādha(箕月)………中国の五月
・Shrāvana(女月)………中国の六月
・Bhādrapada(室月)……中国の七月
・Āshwina(婁月)………中国の八月
・Kārttika(昴月)………中国の九月
・Mārgashira(觜月)……中国の十月
・Pausha(鬼月)………中国の十一月
・Māgha(星月)………中国の十二月
・Phālguna(翼月)………中国の正月
問題は、中国の暦(日本の暦)との対比である。インドの場合には閏月を設けない場合もあり、設ける場合でも置閏法が中国とは異なるので、インドの月を中国の月に単純に対比することはできない。しかし、平安時代の具注暦を見ると、空海が招来した宿曜経の月宿傍通暦に完全に従っており、したがって、少なくとも平安時代の日本では、「角月」を「二月」と見なしていたことになる。
たとえば御堂関白記の現存する範囲の冒頭、長徳四年(998年)七月のところを見ると、「一日丁巳土開」とあり、直上に朱で「張宿」とある。同様に「十五日」の箇所には「室」とある。これは事実上、「室月」を「七月」と見なしていたということである。その場合、「三月八日」は「氐月」の八日であり、「四月八日」(日本において釈迦の生誕日とされる)は「心月」の八日である。たしかに、長保二年(1000年)の三月十五日の箇所には「氐」、四月十五日の箇所には「心」の朱が入れられている。
春の三ヶ月を制晅羅月・吠舎佉月・逝瑟吒月という。
唐の正月十六日から四月十五日までにあたる。
夏の三ヶ月を頞沙茶月・室羅伐拏月・婆達羅鉢陁月という。
唐の四月十六日から七月十五日までにあたる。
秋の三ヶ月を頞湿縛庾闍月・迦刺底迦月・末伽始羅月という。
唐の七月十六日から十月十五日までにあたる。
冬の三ヶ月を報沙月・磨袪月・頗勒窶拏月という。
唐の十月十六日から正月十五日までにあたる。(大唐西域記・巻二)
菩薩は吠舎佉月の後半の八日に生まれられた。
この(中国の)三月八日に当たる。
上座部では吠舎佉月の後半の十五日であると言う。
この(中国の)三月十五日に当たる。(大唐西域記・巻六)
ところが、大唐西域記を見ると、いわゆる釈迦の生誕日を「吠舎佉月の後半の八日」とし、中国の「三月八日に当たる」としている。ここで「吠舎佉月」の「吠舎佉」は「Vaishākha」の音訳である。大唐西域記の場合は、満月の日から満月の日まで(即ち、黒分・白分の順)をひと月とする暦の見聞に基づいて記しているようであり、そもそも「吠舎佉月」を中国の二月十六日から三月十五日までに当たるものと捉えている。それ故、「吠舎佉月の後半の八日」が「三月八日」とされるわけだが、宿曜経のように、あるいは御堂関白記のように「氐月」を「三月」(三月一日〜三月卅日)とする場合においても、もちろん「氐月」(吠舎佉月)の八日は「三月八日」である。
是の年より初めて、寺毎に、四月八日、七月十五日に設斎す。
(日本書紀、推古天皇十四年条)
一方、日本書紀の推古天皇十四年条に、日本における灌仏会と盂蘭盆会の初めと目される記事が載っており、灌仏会は「四月八日」である。たとえば新編全集も当該箇所に関し、「灌仏会(釈迦の降誕を祝う法会)の初め」という頭注を附す。これは、釈迦の生誕日を「心月」(Jyaishtha)の八日とする伝承が別に存在したということだろうか。それとも「氐月」(Vaishākha)を中国の「四月」と見る見方が存在したということだろうか。
おそらく前者は考えにくい。なぜならば、大唐西域記の記述によれば、地元インドにおいて釈迦の生誕月が「氐月」(Vaishākha)とされていたことは確実である。「氐月」(Vaishākha)以外の月に釈迦が生誕したとする伝承も特に知られていない。それに対し、「氐月」を中国の「三月」と見る見方は、必ずしも絶対的なものではない。置閏法が異なる以上、もともとインドの暦と中国の暦は月がずれる。したがって、「氐月」を中国の「四月」と見る見方が仮に存在していたとしても不思議ではない。ある意味で便宜的な見方なのである。
【インドの月名】(括弧内は漢訳)
・Chaitra(角月)…………三月
・Vaishākha(氐月)………四月(八日は灌仏会)
・Jyaishtha(心月)………五月
・Āshādha(箕月)………六月
・Shrāvana(女月)………七月
・Bhādrapada(室月)……八月
・Āshwina(婁月)…………九月
・Kārttika(昴月)…………十月
・Mārgashira(觜月)……十一月
・Pausha(鬼月)………十二月
・Māgha(星月)…………正月(獅子座の月だから獅子舞か)
・Phālguna(翼月)………二月
実は、さらに月宿傍通暦と実際の天象(歴史上、確認できるもの)を比べてみると、「氐月」を「三月」と見るか「四月」と見るかは全く相対的な問題であることが明確になる。というよりも、日本書紀述作の時代(つまり奈良時代以前)には、日本において「氐月」を「四月」と見ていた積極的な可能性すら浮上する(これは別項で述べる)。だとするならば、「氐月」(Vaishākha)の八日と認識したうえで、日本書紀は灌仏会を「四月八日」と記しているのではないか。
さて、その場合、日本の正月は「星月」(Māgha)ということになる。月宿の【星】は、6月22日の《なぜ「鞆の如き完」と説明されるのか》の稿で述べた通り、西洋で言うところの「獅子座」(日本の平安時代のホロスコープには「師子宮」と出てくる)である。このことと、いわゆる「獅子舞」は、関係あるかもしれないし、ないかもしれない。検討すべき問題と言えよう。