「片塩」も「堅石」も「岐多斯」

 月宿の【室】はシリア語のアルファベットの「A」である。即ち「愛比売」(伊予国)である。その【室】に当たるのが安寧天皇(師木津日子玉手見)と用明天皇(橘之豊日)である。「伊予」は「Y」の“一つの読み”であり、その「Y」の原義こそ「手」である。これは安寧天皇が「手」を名に負うことに見合っている。その安寧天皇の宮都が「片塩浮穴宮」(浮穴は伊予国の地名)だが、同じ【室】に当たる用明天皇の母が他ならぬ「岐多斯比売」(堅塩媛)であることに鑑み、「片塩」は「岐多斯」と読むべきである(以上は前稿のまとめ)。
 

   ・安寧天皇……宮都が「片塩浮穴宮」      ※浮穴は伊予国の地名
   ・用明天皇……母が「岐多斯比売」(堅塩媛)


 では、「堅石王」(古事記応神天皇条)についてはどうか。雄略紀に「堅磐此云柯陁之波」とあることなどから、一般に「カタシハ」と読まれている。「カタシ・イハ」>「カタシハ」と考えられ、特段の問題はないが、「カタシホ」(堅塩)の同語異形に「キタシ」があったのだから、「カタシハ」(堅石)の同語異形に「キタシ」があった可能性も否定できない。
 また、そもそも「カタシ」(堅し)という形容詞の語幹は「カタ」(堅)である。「石」の訓には「イハ」の他に「イシ」がある。「カタ・イシ」>「カタシ」>「キタシ」という可能性もあろう。山口佳紀・神野志隆光両氏による新編全集は、宣化天皇の娘の「石比売」を「イハヒメ」と読む。一つの見識ではあろうが、従来説「イシヒメ」も命脈を保っている。古事記の「石」を悉く「イハ」と読むかどうか。


   ・「堅石王」……「石長比売」     :「大山津見神」の娘
   ・「久奴王」……「木花知流比売」  :「大山津見神」の娘


 それよりなにより、8月24日の稿で述べた通り、「堅石王」の子は「久奴王」であり、その「久奴王」は「布波能母遅久奴須奴神」にリンクしている。「久奴須奴神」の母の「木花知流比売」は「大山津見神之女」である。また、「堅石王」の「堅石」は「石長比売」の効用(使った場合に得られる効果)であり、その「石長比売」も「大山津見神之女」である。「大山津見神」の鎮座する場所に関し、古事記は何も記していない。しかし、伊予国風土記逸文、あるいは社記などによれば、古くから「三島」の神様と考えられてきたことは明らかであろう。結局、「伊予国」の「三島」の「大山津見神」は「石長比売/木花知流比売」の父であり、それ故に「堅石王/久奴王」に繋がる存在なのである。
 然るに、8月22日の稿で述べた通り、丹塗矢に「富登」を突かれるのは「三島湟昨之女」だが、「美富登」に御陵があるのは「玉手見」(安寧天皇)である。その「玉手見」の「手」が「Y」(伊予)であってみれば、「三島湟昨」の「三島」は「伊予国」と見るしかない。その「伊予国」の「三島」に古くから現在まで祀られているのが「大山津見神」である。件の安閑天皇は自身が「愛比売」(伊予国)であり、尚かつ「富登」を介して「三島湟昨之女」に繋がりを持つ。その意味で「大山津見神」に浅からぬ縁を有するのである。
 以上を踏まえれば、「堅石王」の「堅石」について、これを安閑天皇の「片塩浮穴宮」の「片塩」と無関係とするわけにはいかないだろう。安閑天皇が「愛比売」(伊予国)なら、また用明天皇も「愛比売」(伊予国)である。その用明天皇の母が「岐多斯比売」(堅塩)であることに鑑み、まず「片塩」は「岐多斯」と読むべきだが、「伊予国」の「三島」の「大山津見神」に繋がるところの「堅石王」であってみれば、この「堅石王」の「堅石」も同じく「岐多斯」と読むべきだろう。


 [追記]上記の「カタシ・イハ」>「カタシハ」という説明は納得しやすいが、実は「カタシ」は終止形である。「堅い石」は「カタキ・イハ」であって、この場合、「カタキ・イハ」>「カタキハ」>「カキハ」と変化する。したがって、「カタシハ」に関しては、むしろ形容詞の語幹に名詞が後接する場合に挿入的子音が挟まれる形になる現象と見たほうがよかろう。即ち「カタ・イハ」>「カタ・s・イハ」>「カタシハ」>「カタシ」である。語尾の脱落に関しては、母音の無声化という問題のみならず、かつて閉音節が存在したかどうかという問題まで絡み、非常に難しい。広母音の無声化は、一般的には極めて少ない。

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