「ܐܒ」(秋八月)は「ܦܡܛܐ」(五)

 やや遡るが、6月20日の稿において、「品陀和気」の「品陀」は「XMΘA」(瘤を意味する)の音写であり、数字の「5」を意味する「PMΘA」(ギリシャ語に由来するシリア語)との掛詞であることを述べた。その一方、仮に「A=2」のシステムが働いているとすると、「AB」(秋八月)の数価は「5」である。即ち、「AB」(秋八月)は「PMΘA」である。


   又、息長帯比売命を娶りて、生みし御子は、品夜和気命。次に、大鞆
   和気命、亦の名は、品陀和気命。此の太子の御名を大鞆和気命と
   負せし所以は、初め、生める時に、鞆の如き完、御腕に生りき。故、
   其の御名を著けき。                      (仲哀記)


 さて、件の応神天皇の名前にまつわる説話においては、「XMΘA」であるところの「鞆の如き完」が「御腕」に出来ていた。故に、「大鞆」という名前を付けた。別名を「XMΘA」(品陀)と言う。概ねそのような説明である。これは、要するに「御腕」に「XMΘA」(瘤のようなもの)が在るという状況である。


   即ち、阿岐豆野に幸して、御獦せし時に、天皇、御呉床に坐しき。
   爾くして、蛧、御腕を昨ひしに、即ち蜻蛉、来て、其の蛧を昨ひて
   飛びき。是に、御歌を作りき。其の歌に曰く、
      美延斯怒能 袁牟漏賀多気爾 志斯布須登 (……中略……)
      多古牟良爾 阿牟加岐都岐 曾能阿牟袁 阿岐豆波夜具比
      加久能碁登 那爾於波牟登 蘇良美都 夜麻登能久爾袁
      阿岐豆志麻登布
   故、其の時より、其の野を号けて阿岐豆野と謂ふ。  (雄略記)


 ところが、「倭国」を「秋津島」と呼ぶことの由来譚においては、「爾くして、蛧、御腕を昨ひしに」云々と説明される。この場合、「蜻蛉」が来る直前までの状況は、まさに「御腕」に「蛧」が在るという状況である。ここで「蛧」が「AB」(秋八月)のシンボルとして登場していることは既に述べた(8月21日の稿)。
 つまり、前者は「御腕」に「XMΘA」が在る状況を描き、後者は「御腕」に(一瞬の出来事として)「AB」が在る状況を描く。このような古事記の描き方の前提には、「AB」は「PMΘA」という認識が存在するだろう。この認識は、取りも直さず、「A=2」という認識である。安倍晴明印(いわゆる五芒星)の意味合いは、此処に在る。シリア語のアルファベット、その数価が問題なのだ。

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