「甲斐の黒駒」について

 インドの「Svati」は中国の「大角」に当たる星である。しかし、摩登伽経や後の宿曜経は単純化を図り、これを「亢」に作っている。即ち、「Svati」が「亢」に翻訳されることによって、結果的に「大角」が「亢」に同一視されている。そのため、漢訳仏典も含めた知識の広がりの中においては、「亢」は中国の二十八宿の「亢」そのものを標示すると同時に、インドのナクシャトラの「Svati」を標示し、結果的に「大角」をも標示する。
 さて、「大角」を訓読すれば、「オホスミ」ないし「オホクマ」だが、「オホクマ」の現在の発音は「オークマ」である。当時の発音は異なっていたにせよ、実は意外に「オークマ」に近かったかも知れず(近くなかったという証明は必ずしも為されていない)、その場合、「大角」は「AWKMA」の借訓表記に成り得る。「AWKMA」の意味は「黒い」。たとえば「SWSYA AWKMA」は「黒い馬」。したがって「黒い馬」が「大角」という星を表象し得る。日本書紀の「黒駒」はどうか。「大角」(インドで言うSvati)を表象しているだろうか。
 日本書紀雄略天皇条)を見ると、まず本文中に「甲斐の黒駒に乗りて馳せ」と登場し、歌謡においても「農播拖磨能 柯彼能矩盧古磨 矩羅枳制磨」(ぬば玉の 甲斐の黒駒 鞍著せば)云々と歌われる。日本書紀の「黒駒」は「甲斐」と一体化して描かれている。もちろん「甲斐」は地名だが、何らかの言葉であるに違いなく、ひとまず、「黒駒」は「甲斐」という言葉と共に在る、と言うべきである。この在り方を問題にするべきである。さしあたり、「甲斐」はブラックボックス(単なる記号)で構わない。


   ・「沙本毘古」……「日下部連」と「甲斐国造」の祖。(開化記)


 ここで一方の古事記を見ると、「沙本毘売」の兄である「沙本毘古」が「甲斐国造」の祖とされている。テクスト論の立場から言えば、このような始祖伝承において「沙本」と「甲斐」の関連づけが図られている、と見なければならない。「沙本」が何か、「甲斐」が何か、という同定に先行して、関連づけの在り方の把握が求められる。それがテクスト論の立場である。
 既に6月21日の前稿で述べた通り、「沙本毘古」の妹である「沙本毘売」の別名は「佐波遅比売」とされる。物語の展開から「佐波遅」は「SHD」(シリア語)としたが、それは「Svati」(サンスクリット)に重なるものとしても記されているのではないか。「Svati」の漢字音訳資料としては仏母大孔雀明王経の「沙縛底」(縛は口偏が付く)などがある。清濁が一致しないと言えば言えるにせよ、掛詞として機能するには十分だろう。
 仮に「佐波遅比売」の「佐波遅」が「Svati」も標示しているとすると、「Svati」の別名が「沙本」ということになるが、この「沙本」は「ΣX」であり、「反抗する」という意味を持っている。「沙本毘古」は反逆者として描かれている。結局は「沙本毘売」も兄に従った。ところが、漢字の「亢」も「抗う」という意味を持っている。したがって、「亢」は倭語に置き換えて「あらがう」とも読めるし、シリア語に置き換えて「ΣX」とも読める。逆に言うならば、「沙本」という音仮名表記が「亢」を標示し得る。仮に「沙本」が「亢」を標示し、「佐波遅」が「Svati」を標示しているとすると、「沙本毘売」と「佐波遅比売」の言い換えは、要するに「亢」と「Svati」の言い換えということになる。
 「沙本毘古」が「甲斐国造」の祖とされるということは、「沙本」を「甲斐」に関連づけているということである。即ち「佐波遅」を「甲斐」に関連づけているということである。即ち「Svati」を「甲斐」に関連づけているということである。「Svati」は中国の「大角」だが、その「大角」は倭語で「オホクマ」と読め、その音はシリア語の「AWKMA」に重なる。重なるが故に「黒駒」が「大角」を表象し得る。つまりは、日本書紀が「甲斐の黒駒」として語る在り方と、古事記が「甲斐国造」の祖を「沙本毘古」とする在り方は、表現形式の違いと言えよう。
 雄略十三年の記事(日本書紀)は、「春三月、狭穂彦が玄孫歯田根命」云々と始まり、何の脈絡もなく、「狭穂彦」の名前が登場する。そして、最後は「甲斐の黒駒」の歌謡で終わっている。このような仕掛けも見届けておきたい。

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