「佐波遅」(ܣܗܕ)は「Svati」を含意する

 仮に「ΣX」というシリア語が「亢」という漢字を標示し得るが故に「沙本」という音仮名表記によって月宿(lunar mansion)の一つである「亢」を示すことを企図したのだとしても、それは古事記というテクスト上のことであって、もともと「ΣX」という言葉がシリア語の文化圏において月宿の「亢」に当たる星を意味する言葉としても用いられていた、ということにはならない。このことを強調しておきたい。しかしながら、「SHD」というシリア語に関しては、注意すべき点がある。以下のような語句が見つかるからである(Payne Smithの辞書)。


   QDMYTA BSHDTA TQLA
   (the proto-martyr Thekla)


 ここで「BSHDTA」の「B」は前置詞。「QDMYTA」は「前」などの意。「TQLA」が何であるとしても、「SHDTA」の前であるところの「TQLA」、という文脈である。「SHDTA」は「SHD」の変化した形。「martyr」(殉教者)と訳されているが、語句全体としての意味は不明瞭と言わざるを得ない。
 さしあたり、「to weigh」(量る)「to balance」(釣り合わせる)などの意味を持つ「TQL」の語があり、その方言形に「TQLA」が存在する。天秤座を意味するシリア語は第一に「MSATA」だが、「TQL」は明らかに縁語であって、意味から考えれば、それ自身が天秤座を表し得る。
 ところが、「亢」に作られる「Svati」は、西洋で言えば「アルクトゥルス」であり、「氐」に作られる「Visakha」は、西洋で言えば「天秤座」である。これら二つの月宿は隣り合っている。したがって、「Svati」の前であるところの「Visakha」、という表現は成り立ち得る。どちらを前と見るかは、相対的な問題である。


   ・「SHDTA」……「Svati」(摩登伽経などは「亢」に作る)
   ・「TQLA」……「Visakha」(摩登伽経などは「氐」に作る)


 以上の考察から見て、上記の語句において「SHD」の変化形である「SHDTA」が「Svati」を意味する可能性は十分にある。その場合、「佐波遅比売」の「佐波遅」は「SHD」を標示すると同時に「Svati」をも標示すると言うよりも、むしろ端的に、「佐波遅」は「SHD」の音写であり、その「SHD」は「Svati」(アルクトゥルス)を含意すると言うべきであろう。
 そもそも「SHD」の発音と「Svati」の発音は、言語圏が異なる以上、同じであるはずはないが、逆に同じであるはずはないからこそ、いずれかが、いずれかの借用語である可能性が浮上する。月宿(lunar mansion)に関しては、中国のもの、インドのもの、アラビアのものがよく知られているが、他の文化圏に無いかどうかは、未だ検討する余地がある。それはさておき、古事記の「佐波遅比売」の「佐波遅」は、結局のところ清音仮名「波」、濁音仮名「遅」が使われていることに加え、物語の展開からも、やはり「SHD」の音写と言うより他ない。

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