「氐」は「秤宮」(ܬܩܠܐ)

 いわゆる倭の五王の「讃・珍・済・興・武」のうち、「讃」と「珍」と「興」の三名については、「翼」と「軫」と「亢」の書き換えということで説明がつくが、残りの「済」(允恭天皇)と「武」(雄略天皇)に関しては、どうなのか。特に「武」(雄略天皇)に関しては、「ワカタケル」と読めるであろう有名な銘文が出土しており(稲荷山古墳鉄剣)、また、「武」の倭訓として「タケル」が有り得るとすれば、「タケル」という倭語の名前があり、それに訓字を充てたものとも考えられる。


   ・「讃」……「伊耶本和気」(イザホ・ワケ)
   ・「珍」……「水歯別」(ミヅハ・ワケ)
   ・「済」……「男淺津間若子宿禰」(ヲアサツマ・ワクゴ・スクネ)
   ・「興」……「穴穂」(アナホ)
   ・「武」……「大長谷若建」(オホハツセ・ワカタケル)


 しかし、「珍」は「メヅラ」とは読めても、「ミヅハ」とは読めない。銘文の「タケル」の「ル」は「歯」に近い字体であり、したがって、もともと音仮名表記で「ミヅル」とあったものを、「ル」の箇所だけ訓仮名と認識して「ミヅハ」と読んでしまった可能性もないわけではないが、「水」を意味する倭語の古形に「ミツ」という清音形があったともされる(飯田武郷)。「弥都波(ミツハ)能売」という神名に連なるものであるとすれば、最初から「水歯」は「ミヅハ」である。
 実のところ倭訓で説明がつくのは、「武」に対する「タケル」以外には無い。もちろん「讃」を応神天皇に比定する説の場合は、日本書紀の「誉田(ホムタ)別」の「誉(ホム)」が「ほめる」という意味を持っていることから、「ホムタ」の「ホム」という倭語に対し、同じ「ほめる」という意味を持つ「讃」を充てたものと考えるわけだが、この説は、これを理由に応神天皇を「讃」に比定する説だから、いわゆるトートロジーに他ならない。


   ・「SHDTA」……「Svati」(摩登伽経などは「亢」に作る)……「興」

   ・「TQLA」……「Visakha」(摩登伽経などは「氐」に作る)……「武」


 そこで注目されるのが、6月21日の稿で述べた「QDMYTA BSHDTA TQLA」という語句である。Payne Smithの辞書の訳は「the proto-martyr Thekla」。ここで「Thekla」は固有名詞である。出典中の文脈は不明だが、「SHDTA」は「SHD」(佐波遅)の変化形であり、インドで言う「Svati」を標示する。一方の「TQLA」は「天秤座」であるところの「Visakha」を標示する。してみると、まずは「TQL」乃至「TQLA」という言葉があって、これが倭音化して受け止められた時に「タケル」という音形で受け止められ、同じ音形を持つ倭語に置き換えられ、それが訓字表記された(古事記の場合は「建」に作る)。そういう道筋を想定することができるだろう。これは倭訓を借りているだけだから、本質的に借訓表記である。
 「穴穂」という表記の示す音形は「アナホ」であるが、この場合、「アナホ」は一語かもしれないし、「アナ・ホ」という二語かもしれない。その点は不明であると言うしかなく、また、「アナ・ホ」という二語であったとしても、「穴」という漢字の字義が「アナ」という語の意味を表し、「穂」という漢字の字義が「ホ」という語の意味を表す、という可能性は低いと見なければならない。仮に「アナ」が「穴」の意で、「ホ」が「穂」の意だとして、結局のところ「アナ・ホ」は、どういう意味の倭語なのか。説明がつかない。やはり借訓なのだ。
 いずれにせよ、「讃・珍・済・興・武」の「武」に関しては、「TQLA」に基づくものと見てよかろう。「武」の崩れた字体は「氐」に近づく。ダイレクトに「氐」に作られていたものを、中国人が「武」と認識した可能性についても一応は記しておく。

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