「興」(安康天皇)は「許碁登臣」に繋がりを持つ

 「甲斐国造」の祖が「沙本毘古」とされるということは、「甲斐」を「沙本」に関連づけているということである。ところが、「沙本毘売」の別名は「佐波遅比売」であり、このシリア語「佐波遅」(SHD)は「Svati」(西洋に言うアルクトゥルス)に他ならない。摩登伽経などの漢訳仏典は中国の宿名を流用し、これを「亢」に作る。したがって、「甲斐国造」の祖が「沙本毘古」とされるということは、実のところ、「甲斐」を二十八宿の「亢」に関連づけているということである。


    ・「沙本毘古」……「日下部連」と「甲斐国造」の祖。(開化記)
    ・「沙本」の別名は「佐波遅」(摩登伽経などの漢訳仏典では「亢」)。


 日本書紀の御名代の記事に従って安閑天皇二十八宿の「牛」と見る場合、応神天皇は「星」(インドに言うMagha、師子宮)ということになるが、これは「鞆の如き完」(トモの如きシシ)から説明される応神天皇命名説話によく合致する。また、倭の五王と言われる「讃・珍・済・興・武」は「翼・軫・角・亢・氐」ということにもなるが、「氐」は「秤宮」である。この場合、「秤」を意味する「TQLA」という語の借訓表記が「武」と考えられる。「翼」が「讃」に作られ、「亢」が「興」に作られるのは、字義から見て自然と言えよう。


    ・「許碁登臣之女」……「甲斐郎女」と「都夫良郎女」の母。(反正記)
    ・書紀訓注に「興台産霊、此には許語等武須毘と云ふ」。(神代上)


 さて、仮に「亢」が「興」(安康天皇)に該当するとすれば、「甲斐国造」の祖が「沙本毘古」とされるということは、「甲斐」を「興」に関連づけているということである。ところが、書紀訓注に「興台産霊、此には許語等武須毘と云ふ」とあり、したがって、古事記において「甲斐郎女」の母が「許碁登臣之女」とされるということは、「甲斐」を「興台」(許碁登)に関連づけているということである。
 「甲斐」を「興」(安康天皇)に関連づける脈絡と、「甲斐」を「興台」(許碁登)に関連づける脈絡は、同一の脈絡と見てよい。何故ならば、「大日下王」の子である「目弱王」が「都夫良意富美」の家に逃げ入るというストーリー設定により、「日下部連」が「都夫良郎女」にリンクされているからである。「日下部連」は「甲斐国造」の同族であり、その祖は「沙本毘古」である。一方、「都夫良郎女」は「甲斐郎女」の妹であり、この姉妹の母は「許碁登臣之娘」である。この二つの事柄がリンクされている以上、「沙本」は「許碁登」に重なる。
 以上から分かるのは、「甲斐」は今のところブラックボックスだが、言うところの倭の五王のうちの一人である「興」の背後に、意味不明の「許碁登」(いずれも乙類仮名)という言葉が存在する、ということである。

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