「狭井河」の「狭井」は「ZY」(ܙܝ)
釈日本紀所収の丹後国風土記逸文に、いわゆる浦島伝説が記されていることは有名だが、その中に「其七竪子者昴星也、其八竪子者畢星也」と出てくる。「昴」は七人、「畢」は八人、という話だが、西洋においても「昴」(プレアデス)は「七人の娘」として知られている。関連する叙述が神武記に見られる。
是に、七たりの媛女、高佐士野に遊びに行くに、伊須気余理比売、其の
中に在り。爾くして、大久米命、其の伊須気余理比売を見て、歌を以て
天皇に白して曰はく、
倭の 高佐士野を 七行く 媛女ども 誰をし娶かむ
(中略)
是に、其の伊須気余理比売の命の家、狭井河の上に在り。天皇、其の
伊須気余理比売の許に幸行して、一宿御寝し坐しき。〈其の河を佐韋
河と謂ふ由は、其の河の辺に山ゆり草多た在り。故、其の山ゆり草の
名を取りて佐韋河と号けき。山ゆり草の本の名は、佐韋と云ふ。〉
古事記は「豊受」を「登由宇気」に作る。「伊須気余理比売」の「余理」は、当然ながら「山由理草」の「由理」(百合)に呼応する言葉である。その点はさておき、「狭井河の上に在り」の「上」が「ほとり・かたはらの意」(新編全集)ならば、要するに、「伊須気余理比売命之家」と「狭井河」は隣り合わせの位置関係。「七媛女」の中に在る者として描かれる「伊須気余理比売」の家が、「狭井河」(佐韋河)に隣接して在る。そのように古事記は叙述しているわけだ。
・孝元天皇「昴」……アルファベットの「W」……WW ※七媛女
・開化天皇「畢」……アルファベットの「Z」……ZY(佐韋) ※狭井河
先ず事実として、「昴」は「畢」の上に在る(両宿の位置関係)。7月6日の稿の通り、二十八宿の「畢」が「ZY」(佐韋)であれば、「七媛女」(昴)は「佐韋」(畢)の上に在る、ということになる。その場合、「七媛女」の一人である「伊須気余理比売」の家が、「狭井河」(佐韋河)の上に在る、という古事記の叙述は自ずから明らかである。さらに言うと、古事記が「最前」(長女であること)を強調しているのは、「Μαια」(長女のギリシャ語の名前)が念頭にあるのかもしれない。
・狭井大神(左殿)…………………古事記の「狭井河」に対応
・姫蹈鞴五十鈴姫命(中央)………古事記の「七媛女」に対応
・玉櫛姫命(右殿)
さて、開化天皇の宮都を古事記は「春日之伊邪河宮」に作る。日本書紀も「都を春日の地に遷したまふ。是を率川宮と謂ふ」と記す。現在は「率川神社」があって、「三枝祭」(百合の祭り)が有名である。開化天皇が「佐韋」(山由理草之本名)であれば、開化天皇の宮都である「率川」の地に「百合」の祭りが伝わるのは当然と言える。左殿に祀られる「狭井大神」の「狭井」が何であるかは、既に以上の説明において明らかだろう。