雄略天皇条の「虻」は「ܐܒ」(秋八月)

 インドにおける月宿の名称と各月の名称の関係において、少し注意すべき点がある。一つの例で述べておく。摩登伽経の【室】と【壁】は、意訳を旨とする舍頭諫経においては【前賢迹】と【後賢迹】に作られる。これは「Pūrvabhādrapadā」と「Uttarabhādrapadā」の訳である。つまり、「bhādrapadā」が「賢迹」に訳されている。それに対し、満月の15日に月(moon)が【室】に宿す月(month)が「室月」だが、この「室月」の原語は「Bhādrapada」である。これを意訳すれば「賢迹月」だろう。したがって、「室月」は「賢迹月」ということになる。以上を踏まえながら、セム系の文化圏における「AB」を考えてみる。


   ・正月………星月……KNWN AXRY     DWLA(宝瓶宮
   ・二月………翼月……ΣBΘ          NWNYA(双魚宮
   ・三月………角月……ADR           DKRA(白羊宮)
   ・四月………氐月……NYSN          十WRA(青牛宮)
   ・五月………心月……AYR           十AWMYA(陰陽宮)
   ・六月………箕月……XZYRN          SRΘNA(巨蟹宮
   ・七月………女月……十MWZ          ARYA(師子宮)
   ・八月………室月……AB            B十WL十A(少女宮)
   ・九月………婁月……AYLWL          MWZNYA(秤量宮)
   ・十月………昴月……十ΣRY QDYM    OQRBA(蝎虫宮)
   ・十一月……觜月……十ΣRY AXRY     QΣ十A(人馬宮
   ・十二月……鬼月……KNWN QDYM     GDYA(麿蝎宮)


 インドの「室月」に当たるのが、セム系の文化圏における「AB」である。ところが、今までの考察によれば、そもそも「A」は【室】(Pūrvabhādrapadā)に当たり、そもそも「B」は【壁】(Uttarabhādrapadā)に当たる(シリア語のアルファベットと月宿の照応は8月19日の稿にまとめてあるので、そちらをご覧いただきたい)。この場合、「賢迹」(bhādrapadā)であるところの月宿が二つあり、それは【室】と【壁】ということである。換言すると、「賢迹」(bhādrapadā)であるところの月宿が二つあり、それは「A」と「B」ということである。「賢迹月」(Bhādrapada)が「AB」であることは、【前賢迹/後賢迹】が「A/B」であることに全く見合っている。


   ・「A」は【前賢迹】(Pūrvabhādrapadā)。【室】に同じ。
   ・「B」は【後賢迹】(Uttarabhādrapadā)。【壁】に同じ。
   ・「AB」は「賢迹月」(Bhādrapada)。「室月」(八月)に同じ。


 以上の事柄は、8月19日の《「手」(ܝܘܕ)の天皇は「伊予之二名島」に連なる》という稿に大いに関係していよう。仮に「A=2」のシステムが働いているとすると、「AB」(5)は「D」(5)に重なる。それだからこそ、「D」に当たる孝安天皇の宮都が「室之秋津島」に作られるのだ。「秋八月」(セム系の文化圏における「AB」に該当)であるところの「室月」(Bhādrapada)が前提にあって、「室之秋津島」に作られるのだ。【室】(A)に当たる天皇が「玉手見」に作られ、【婁】(D=AB)に当たる天皇の御陵が「玉手岡上」に作られることも、やはり「室月」が「AB」であることとの関係において捉えられるべきだろう。


   ・【室】安寧&用明……2……A……「師木津日子玉手見」
   ・【壁】懿徳&崇峻……3……B
   ・【奎】孝昭&推古……4……G
   ・【婁】孝安……………5……D……御陵「玉手岡上」、宮都「室之秋津島


 この「室之秋津島」に関しては、雄略天皇条に関連する説話が盛り込まれている(古事記日本書紀も)。歌謡の導入部において先ず「袁牟漏賀多気」(小室が岳)が云々されるのは、月宿の【室】を想起させる意図だろう。もちろん「阿岐豆」は「蜻蛉」を意味しつつ、「秋津」(秋であること)に掛けている。古事記の全体の中で「阿岐豆志麻」という語形が出てくる箇所は、この歌謡部分の他には、孝安天皇の「葛城室之秋津島宮」の箇所しかない。その孝安は「D」(5)の天皇であり、したがって「AB」(5)の天皇でもある。してみれば、「蛧」(音仮名表記で「阿牟」に作られる)は「AB」(要するに秋八月)の象徴だろう。


   即ち、阿岐豆野に幸して、御獦せし時に、天皇、御呉床に坐しき。
   爾くして、蛧、御腕を昨ひしに、即ち蜻蛉、来て、其の蛧を昨ひて
   飛びき。是に、御歌を作りき。其の歌に曰く、
      美延斯怒能 袁牟漏賀多気爾 志斯布須登 (……中略……)
      多古牟良爾 阿牟加岐都岐 曾能阿牟袁 阿岐豆波夜具比
      加久能碁登 那爾於波牟登 蘇良美都 夜麻登能久爾袁
      阿岐豆志麻登布
   故、其の時より、其の野を号けて阿岐豆野と謂ふ。  (雄略記)


 「AB」の元の発音は今日の「アブ」に近いはずだが、古事記の「阿牟」を日本書紀は「阿武」に作り、古事記の「多古牟良」を日本書紀は「陁倶符羅」に作る。「牟」(ム)と「符」(ブ)の音転が見られる。それに加えて日本書紀雄略天皇条は巻十四であり、森博達氏の言うα群である。α群において「武」は「ム」の常用字種と言ってよい(歌謡範囲で25例)が、中国の標準音において鼻音字の非鼻音化(m > mb)が進んでいたこと、その一方で日本の上代において濁音の前に鼻音が伴っていたこと、両者に鑑みれば、日本書紀の件の「阿武」(虻)に関し、日本側における語形認識(音韻的な認識)が「アム」であったか「アブ」であったか確定的に言うことはできない。「アブ」であったとしても、「ブ」の前に鼻音が伴っていたとすると、当時の中国側からすれば、「武」(頭子音はmb)で写す可能性は十分にある。ちなみに今日の「虻」の語形は一般に「アブ」だ。


 [追記]もちろん編年体日本書紀で「虻」は「秋八月」の記事として載る。「秋七月」ではない点が重要である。月宿傍通暦と死海写本(4Q318)の対比から、「AB」が「室月」に当たることは確実であるが、その「AB」の象徴としての「虻」が「秋八月」に記されるということは、取りも直さず、「室月」を「秋八月」と見ていることになる。あるいは、「秋八月」を「室月」と見ていることになる。

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