「賦斗迩」の「廬戸宮」について

 8月19日の稿と8月21日の稿で述べたことをまとめておこう。古事記天皇のうち「手」を名に負うのは「玉手見」(安閑天皇)に限り、皇后のうち「手」を名に負うのは「手白髪」(継体天皇の皇后)に限る。前者は月宿の【室】に当たり、後者は月宿の【斗】に当たる。【室】に当たるのは「A」(2)だが、「室月」(Bhādrapada)は「AB」(5)であり、その数字が「D」(5)に一致する。だからこそ「D」(5)に当たる孝安天皇の宮都が「室之秋津島」に作られ、また、御陵が「玉手見」にちなんで「玉手岡上」に作られる。
 「愛比売」の「愛」は「A」(2)を表し、「伊予」は「Y」(20)を表す。ところが、アルファベットの「Y」の原義は「手」である。その一方で、「伊予国は愛比売と謂ふ」とされる。「手」(伊予)を名に負う唯一の天皇である「玉手見」が「A」(愛)に当たることは、「伊予国」の別名が「愛比売」であることに見合っている。【斗】に当たる継体天皇の御陵は「三島之藍陵」だが、その皇后は「手白髪」であり、「手」(伊予)を名に負っている。したがって、「三島之藍陵」の「三島」は「伊予国」の地名と見るべきである。もちろん「藍」(アヰ)は「愛」(アイ)との掛詞。
 「伊予国は愛比売と謂ふ」という事柄は、「伊予国」が今日の「愛比売」(愛媛県)であることに受け継がれているが、その「愛比売」(伊予国)の「愛」こそ「A」であり、【室】である。ところが、【室】の主宰神を件の摩登伽経は「富単那神」に作る。「伊予之二名島」の「二名」(フタナ)は「富単那」(フタナ)に他ならない。記紀において、音仮名ではなく、借訓で「二名」に作られるのは、「A」(愛比売)が「2」(二)であることを踏まえてのことである。


   ・【胃】(孝霊天皇)……諡号の固有部分「賦斗迩」、宮都「黒田廬戸宮」


 次に、孝霊天皇の和風諡号の固有部分である「賦迩」について考えてみたい。音仮名表記である点において何らかのシリア語が想定されるが、それと同時に、文字列の中に「斗」を含む点も見落とすわけにはいかない。「賦迩」の宮都は「廬宮」だが、「斗」も「戸」も甲類仮名である。そこで問題になるのは、「斗」と「戸」の関係である。
 シリア語のアルファベット(と言うよりも、セム系の言語におけるアルファベットと言うべきか)の「D」は「戸」(英語で言うdoor)を意味する。ところが、「D」(5)は「AB」(5)に重なる。それ故、「戸」という漢字そのものが「室月」(Bhādrapada)を標示する。一方、そもそも月宿の【室】は「A」(愛)だが、その【室】に当たる天皇も「手」を名に負い(玉手見)、【斗】に当たる天皇の皇后も「手」を名に負う(手白髪)。しかもまた、【斗】に当たる天皇の御陵である「三島之藍陵」の「藍」(アヰ)は「愛」(アイ)を暗に示す。即ち「A」であるところの【室】を標示する。


   ・「賦迩」の「斗」 → 【斗】を標示。「藍」は「愛」。その「A」は【室】。
   ・「廬宮」の「戸」 → 「D」(5)即ち「AB」(5)を標示。「AB」は「室月」。


 そうすると、なぜ【胃】に当たる(即ち「H」に当たる)孝霊天皇の箇所に、「斗」を含む名辞や「戸」を含む名辞が配置されるのか、という謎が今のところは残るにせよ、「賦迩」の宮都が「廬宮」であることにおいて、【斗】(藍陵の藍はA)と「戸」(DはAB)の関係が示されている点は間違いないだろう。
 尤も、古事記の甲類の「ト」の仮名は総じて「斗」である(一部に「刀」も見られる)。したがって、「フトニ」という語形に対し、これを音仮名で表記すれば、相当に高い確率で「ト」の箇所は「斗」になる。その点だけ捉えて言えば、当該箇所に「斗」が出てくるのは偶然とも言える。しかしながら、日本書紀は「太瓊」に作る。古事記の場合にも「タマデミ」を「玉手見」に作り、「アサツマ」を「淺津間」に作るなど、訓字による表記は決して少なくない。そういう中にあって音仮名に作る以上、むしろ、【斗】を現出させる意図すら可能性の範囲に含めて考えてみる必要があるのではないか。

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