月日の設定について(舒明天皇の伊予行幸)

 日本書紀のそれぞれの記事については、実際に何らかの記録(いわゆる原資料の類)が残っていて、それが写されたケースもあるだろう。しかし、そうではないケース、日本書紀述作の時点において初めて書かれたケースも当然ながらあるだろう。一般論としては、そのように言うしかない。
 さて、その場合、何月何日のことか明示されている記事は、どのように考えたらよいのか。暦が既に使われていて、その暦に従った記録が残されていて、その記録の中に何月何日か分かる形で記されていて、それが取り込まれたのかもしれないが、そういう例は多いだろうか少ないだろうか。


   十二月の己巳の朔にして壬午に、伊予湯湯宮に幸す。
   是の月に、百済河の側に九重塔を建つ。
   十二年の春二月の戊辰の朔にして甲戌に、星、月に入れり。
   夏四月の丁卯の朔にして壬午に、天皇、伊予より至り、
   便ち厩坂宮に居します。   (日本書紀舒明天皇十一年条)


 たとえば8月21日の《奈良時代以前の月宿傍通暦》の稿で引用した記事。舒明天皇紀は巻廿三であり、森博達氏の言うβ群に属す。そしてβ群の天文記事は、日本における実際の天象を反映しているとされる。たしかに「星入月」の「星」が具体的に「アルデバラン」であることは間違いない。しかし、β群が儀鳳暦で記されている(通説)とすれば、そのまま原資料が写された可能性はゼロに等しい。舒明十二年(640年)に儀鳳暦は未だ存在しないからである。


   ・十二月十四日【井】……(天皇)幸于伊予湯湯宮
   ・夏四月十六日【房】……天皇至自伊予便居厩坂宮


 それはともかく、天文記事の前後に見られる「伊予」への行幸記事について考えてみよう。何月何日かに着目すると、舒明十一年の十二月十四日に「伊予湯湯宮」へ行き、舒明十二年の四月十六日に「伊予」から戻り、直ぐに「厩坂宮」へ赴いた。そういう話である。
 ところが、いわゆる月宿傍通暦において「角月」を「三月」と見る場合、つまり、《奈良時代以前の月宿傍通暦》の稿の末尾のものに従えば、十二月十四日は【井】であり、四月十六日は【房】である。ここで最初に注意すべきは、【井】に当たるシリア語のアルファベットは「Y」だが、その「Y」の読みこそ「伊予」であるという点だろう(8月19日の稿を参照されたし)。即ち、「伊予」の月日に「伊予」へ行幸した、という記事なのだ。これは分かりやすい。


   ・【胃】孝霊……「H」     ・「賦斗迩」、宮都「廬戸宮」、御陵「馬坂上
   ・【井】景行……「Y」(手)
   ・【房】清寧……「R」     ・「白髪」
   ・【斗】継体           ・「手白髪」(皇后)


 一方、月宿の【房】に当たる天皇は「白髪」(清寧天皇)である。「Y」の原義は「手」だから、要するに舒明天皇は、「手」の月日に「伊予」へ行幸し、「白髪」の月日に「伊予」から戻った、ということである。この行為は、「伊予」に絡みつつ、「手白髪」に絡んでいる。と言うよりも、「手白髪」に絡むような形で「伊予」への行幸を記していると言うべきか。その「手白髪」に当たるのが【斗】である。
 さて、前稿においては、「戸」を意味する「D」が「AB」(室月、Bhādrapada)に重なる以上、「賦斗迩」の宮都が「廬戸宮」であるのは、月宿の【斗】を十分に意識した記述と考えるべき、ということを論じた。ところが、その宮都を「廬戸宮」に置いた「賦斗迩」の御陵が「片岡馬坂上」に作られている。「室月」にまつわる場所に宮都を置いた【斗】を名に負う天皇の御陵が「馬坂」の上に作られている。そのように作る脈絡と、「手白髪」に絡む形で「伊予」(愛比売)へ行幸し、直ちに「厩坂宮」へ赴く脈絡とは、全くパラレルである。
 してみると、ここで挙げたのは一例に過ぎないが、歴史上の出来事か机上の出来事かは別として、日本書紀において月日を明示する記事が、月宿傍通暦(但し角月が三月)に従っている可能性が出てくるのである。もし歴史上の出来事だとすれば、歴史上(その暦年に相当する時代に)、月宿傍通暦が用いられていたことになるが、その可能性はどうか。容易には決し難い問題である。

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