古事記の「天押帯日子」について
古事記の「春」は16文字。そのうち、14文字は「春日」(古事記というテクスト上の地名)として出てくる。残りの2文字は「春山之霞壮夫」として出てくる。後者は「兄号秋山之下氷壮夫、弟名春山之霞壮夫。」というように、秋春の対(pair)で登場する。
・天押帯日子(春日臣などの祖。筆頭は春日臣)→春二月(翼月)
・大倭帯日子国押人……「AB」(室之秋津島宮)→秋八月(室月)
順序は逆転するが、「天押帯日子」(隋書の「姓阿毎字多利思北孤」を念頭に置いた名前)と「大倭帯日子国押人」(いわゆる孝安天皇)の兄弟も、春秋の対(pair)で登場する。古事記においては、春と言えば、「春日」(16回中14回)であり、秋と言えば、「秋津」(16回中10回)である点に注意したい。
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さて、二十八宿の【張】は「Pūrva・phālgunī」(舍頭諫経では「前徳」)に当たり、【翼】は「Uttara・phālgunī」(舍頭諫経では「北徳」)に当たる。また、「春二月」であるところの「翼月」のインド名は「Phālguna」(もちろん「phālgunī」の変化形)である(矢野道雄『密教占星術』などを参照)。
・「春日建国勝戸売──沙本之大闇見戸売──袁邪本王」
(開化記の系譜記事より)
ところが、古事記というテクスト上に、「春」(ハル)も「国」(クニ)も含む唯一の人物として、「春日建国勝戸売」が存在する。結果的に、この人物は「phālgunī」を表象する(ここで「春」は正訓表記に近い。「国」は借訓表記)。そして、その孫に「沙本毘古、袁邪本、沙本毘売、室毘古」がいる。
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ここで「袁・邪本 > 袁邪本」(連濁)と考えられることから、同様に「伊・沙本 > 伊邪本」(連濁)と考えられ、その場合は、履中天皇の和風諡号である「伊邪本和気」は「沙本」に由来する名前ということになる。
一方、安閑天皇が二十八宿の【牛】ならば、履中天皇は【翼】である(この点については、2009-06-21の記事を参照)。つまり、「伊邪本和気」(これは「沙本」に由来する名前)は【翼】(Uttara・phālgunī)や「翼月」(Phālguna)に照応する。
「沙本」に由来する名前が「翼月」(Phālguna)に照応するという事柄と、古事記の「沙本」の系譜が「春日建国勝戸売」(この人物は「phālgunī」を表象する)から説き起こされるという事柄は、まったくパラレルである。
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以上を踏まえつつ、「天押帯日子」(隨書の「姓阿毎字多利思北孤」を念頭に置いた名前)について考えてみる。冒頭の通り、弟の「大倭帯日子国押人」(孝安天皇)が「秋八月」(室月)に照応し、兄の「天押帯日子」(阿毎・多利思北孤)が「春二月」(翼月)に照応する(無論、古事記が意図して照応させている)。
ところが、舍頭諫経は「Pūrva・phālgunī」を「前徳」に作り、「Uttara・phālgunī」を「北徳」に作る。即ち、「phālgunī」を「徳」と漢訳する。したがって、「Phālguna」(翼月)についても「徳」と漢訳し得る。「徳」の一文字が「Phālguna」(翼月)を表し得るのである(もう少し平たく言えば、「徳」という漢字は「Phālguna」(翼月)と訓めるということ)。
日本書紀の巻廿一(α群)に「厩戸皇子、更名豊耳聡聖徳、或名豊聡耳法大王、或云法主王。」(用明天皇元年)とあり、巻廿二(β群)では「豊聡耳」という名の由来が説かれる。最も流布した「聖徳」という称号の「徳」に対して書紀は説明を欠く。しかし、この「徳」が「Phālguna」(翼月)を表すとするならば、結局、古事記は意図して「天押帯日子」(阿毎・多利思北孤)を、「聖徳」という称号に照応させていることになる。
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【付記】古事記において、「天押帯日子」(阿毎・多利思北孤)を祖とするのは、「春日臣」だけではない。「大宅臣」「粟田臣」「小野臣」「柿本臣」等も同祖。ここで「小野臣」が入っている点に注意したい。西暦607年、隋に派遣された(但し、書紀は「遣於大唐」と記述する)のは「小野臣妹子」である。その「小野臣妹子」は、隨書に出てくる「阿毎・多利思北孤」(一般に聖徳太子として知られる人物)の親戚であった。そのように古事記は主張しているのである(別段、驚くような主張でもないだろう)。古事記は古事記の方法論で、歴史を描く。
【追記】事実誤認があったので、訂正しておく。 日本書紀の巻廿一(α群)に「厩戸皇子、更名豊耳聡聖徳、或名豊聡耳法大王、或云法主王。」(用明天皇元年)とあるが、この中の特に「聖徳」という名辞についても、巻廿二(β群)に関連記事が載る。厩戸皇子が亡くなった際の、慧慈(高麗僧)の誓願の言葉として出てくる(推古天皇二十九年)。
為皇太子、請僧而設斎。仍親説経之日、誓願曰、「於日本国有聖人。
曰上宮豊聡耳皇子。固天攸縦。以玄聖之徳、生日本之国。
苞貫三統、簒先聖之宏猷、恭敬三宝、救黎元之厄。是実大聖也。
今太子既薨之。我雖異国、心在断金。其独生之、何益矣。
我来年二月五日必死。因以遇上宮太子於浄土、以共化衆生。」
於是、慧慈当于期日而死之。是以、時人之彼此共言、
「其独非上宮太子之聖。慧慈亦聖也。」