古事記の「飯豊」について

   於是、問日継所知之王、
   市辺忍歯別王之妹、忍海郎女、亦名飲豊王、
   坐葛城忍海之高木角刺宮也。
   爾、山部連小楯、任針間国之宰時、
   到其国之人民、名志自牟之新室楽。
   (……中略……)
   爾即、小楯連聞驚而、
   自床堕転而、追出其室人等、
   其二柱王子、坐左右膝上泣悲而、
   集人民作仮宮、坐置其仮宮而、貢上駅使。
   於是、其姨飯豊王、聞歓而、令上於宮。  (古事記・下巻)


 古事記は「二柱王子」(顕宗天皇仁賢天皇)が発見される過程を、このように描く。その「二柱王子」についてはともかく、今ここで特に注目したいのは、「小楯連」が「飯豊王」の臣下に位置づけられている(そのように描かれている)という点である。「小楯」は「飯豊」(ふくろう)の臣下なのである。


   ・「大楯」山部大楯連……「女鳥」の玉を取って妻に与える
   ・「小楯」(1)山部連小楯……「飯豊」(ふくろう)の臣下
   ・「小楯」(2)建小広国押楯……二十八宿の【女】に該当


 ここで二人の「小楯」(山部連小楯と建小広国押楯)を重ねてみれば、二十八宿の【女】に該当するものが、「飯豊」(ふくろう)の臣下に位置づけられている、ということである。即ち、臣下という関係性を用いて古事記は【女】を「ふくろう」(或る範囲の文化圏において智恵の象徴とされる)にリンクする。


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 ところが、古事記の「厩戸豊聡耳」に関し、日本書紀用明天皇元年)の細注に、「更名豊耳聡聖徳、或名豊聡耳法大王、或云法主王」とある。「聡耳」は「耳聡」(二十八宿の【女】に同じ)に作ることもあった。その「豊聡耳」に関し、やはり日本書紀推古天皇元年)に、次のようにある。


   母皇后曰穴穗部間人皇女。皇后懐姙開胎之日、
   巡行禁中、監察諸司。至于馬官、乃當厩戸、而不労忽産之。
   生而能言。有聖智。及壮一聞十人訴、以勿失能弁。兼知未然。
   且習内教於高麗僧慧慈、学外典於博士覚竫。並悉達矣。
   父天皇愛之令居宮南上殿。故称其名謂上宮厩戸豊聡耳太子。


 特に「生而能言。有聖智。及壮一聞十人訴、以勿失能弁。兼知未然」という部分は、「豊聡耳」の由来を説明する。「十人訴」を一度に聞いて失うことなく、よく弁え、「未然」(まだ起こっていないこと)を「兼知」する(予め知る)。そういう事柄が「聡耳」(耳聡)という文字列の内実である。


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 ナクシャトラの「Sravana」を摩登伽経は中国の宿名を流用し、「女」に作り、舍頭諫経は翻訳し、「耳聡」に作る。そもそも【女】(Sravana)は「耳聡」(Sravana)である。一方で、古事記は、その【女】(小楯)を「ふくろう」(飯豊)にリンクする。即ち、「耳聡」(たとえば兼知未然といった事柄)を「ふくろう」(或る範囲の文化圏において智恵の象徴とされる)にリンクする。
 「耳聡」が「ふくろう」にリンクされる必然性は、「ふくろう」が智恵の象徴であることによってこそ担保される。ということは、古事記は「ふくろう」を智恵の象徴と見ているということになるが、そのような見方の本源はギリシャにある。其処で、ギリシャ語「σοφία」(上智大学の英語名でもある。wisdomの意)に由来するシリア語(Syriac)の「SWPYA」が浮上する。その子音対は「SP」である。


━追記━(2010年10月15日)
 ところが、「飯豊郎女」は「伊邪本和気」の子である(古事記系譜)。古事記中、「邪本」という文字列は、二人の人物(袁邪本と伊邪本和気)の名前に出てくるのみ。前者は「沙本毘古」の弟であることから、いわゆる連濁(小・沙本>小邪本)と理解できる。故に、「伊邪本」に関しても、同様に連濁(伊・沙本>伊邪本)と理解できる(一つの理解の仕方として)。つまり、「飯豊」(ふくろう)は、「伊・沙本」の子ということになる。このことも含めて考えると、尚更、「沙本」と文字列により示される音形は、ギリシャ語の「σοφία」に通じるものと言えそうである(通じるものであることを念頭に置いて古事記は作られている)。


  http://d.hatena.ne.jp/ywrqa/20100718/1279400341

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