角界の源流を探る(1)──「久延毘古」考──

 日本書紀垂仁天皇七年「秋七月己巳朔乙亥」(7月7日)の箇所に、今日の相撲のルーツに当たる事柄が載るが、ここで「相撲」が「捔力」に作られるのは、いわゆる月宿傍通暦(http://d.hatena.ne.jp/ywrqa/20090821/1250811501)において、「7月7日」が【角】に当たることと無関係ではないだろう(今日も相撲界のことを角界と言う)。


   四方に求めむに、豈我が力に比ぶ者有らむや。
   何して強力者に遇ひて、死生を期はずして、頓に争力せむ。 (日本書紀


   誰ぞ、我が国に来て、忍ぶ忍ぶ如此物言ふ。
   然らば、力競べせむ。故、我先ず其の御手を取らむ。      (古事記


 ところで、その日本書紀の「捔力」(つまり相撲)は、「當摩蹶速」の「頓得争力焉」(漢文体)という発言がきっかけである。これに似た発言が、実は古事記にも出てくる。「建御名方」の「然欲為力競」(倭文体)という発言である。その意味において、「建御名方」と「建御雷」の力競べは、「當摩蹶速」と「野見宿禰」の争力に重なるものである。


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 さて、古事記の「建御名方」は「葦」に譬えられ、また、「除此地者、不行他処」と発言する。「此地」とは「州羽」(スハ)のことだが、シリア語(Syriac)で「葦」を「SWP」(sūfa)と言う。つまり、「州羽」(借訓表記)は「SWP」に充てられたものと見てよいが、他にも見落とせないことがある。結論を先に言うと、古事記の「建御名方」は「久延毘古」に重ねて描かれている。


   ・「建御名方」(力競べで負ける)……「葦が不行」
   ・「久延毘古」(山田之曽富騰)……「足が不行」


 古事記中、「不行」の文字列は、2箇所である。うち1箇所は、「除此地者、不行他処」という「建御名方」の台詞。もう1箇所は、「久延毘古」(山田之曽富騰)に対し、「此神者、足雖不行、尽知天下之事神也」と説明される部分である。「葦」は「建御名方」を指し、「足」は「久延毘古」の足を指すから、「葦が不行」という事柄は、「足が不行」という事柄に重なる(古事記の掛詞的手法)。


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 ところが、上に述べた通り、古事記の「建御名方」は日本書紀の「當摩蹶速」に重なる(相撲において負ける役回り)。したがって、古事記の「久延毘古」(ここに在るのは「久延」という言葉)も日本書紀の「蹶速」(さしあたり「當摩」は地名)に重なる。この場合、音仮名の「久延」は「蹶」の倭訓と見るのがよい。
 2010-07-20の稿(http://d.hatena.ne.jp/ywrqa/20100720/1279568826)では、「山田之曽富騰」が「隼人・曽婆加理」に重なることを述べた。「阿多隼人」(負けの立場)と「大隅隼人」(勝ちの立場)も相撲をとる(天武紀)。然らば、「山田之曽富騰」が相撲をとる存在であってもよい(阿多隼人に相当する)。

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