「沙本」という未詳語について

 古事記に「邪本」という文字列は七回出てくる。最初の二回は「袁邪本」という人名、残りの五回は「伊邪本和気」(いわゆる履中天皇)という人名である。こういう場合、古事記というテクストにおいて二人の人物はリンクされている(関連づけられている)と見なければならない。


   ・古事記の「邪本」(1)……「袁邪本」(葛野之別・近淡海蚊野之別の祖)
   ・古事記の「邪本」(2)……「伊邪本和気」(御骨が蚊屋野で見つかる)


 二者は「邪本」という文字列でリンクされているだけでなく、「蚊野」と「蚊屋野」の両地名においてもリンクされている。古事記中、「蚊」の文字は両地名を除いて他には出てこない。しかも、前者は「近淡海蚊野」、後者は「淡海之久多綿之蚊屋野」と出てくる(この場合、同一地名と見て構わない)。


   又娶春日建国勝戸売之女、名沙本之大闇見戸売、生子、
   沙本毘古王、次袁邪本王、次沙本毘売、亦名佐波遅比売、次室毘古王。
   (開化記の帝紀部分より引用)


 ところが、「沙本毘古」(サホビコ)と「袁邪本」(ヲザホ)が兄弟であることから、少なくとも「袁邪本」の二音節目の「邪」(ザ)は、いわゆる連濁によるものと理解され、その場合、「伊邪本和気」の「伊邪本」についても、「伊・沙本 > 伊邪本」という可能性が浮上する。履中天皇は「沙本」に縁があるのだろうか。


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 さて、「広国押建金日」(安閑天皇)が二十八宿の【牛】ならば、自動的に「大倭帯日子国押人」(孝安天皇)は二十八宿の【婁】ということになるが、その【婁】はシリア語のアルファベットの「D」に当たる。そして、「D」(5)は「AB」(5)に数価が等しい。「AB」は「秋八月」に当たり、「室月」(Bhādrapada)に当たる。それ故に孝安天皇の宮都が「室之秋津島宮」に作られるのであった(以上に関しては、さしあたり2009-08-21の記事を参照)。


   ・「天押帯日子」(春日臣などの祖。筆頭は春日臣)→春二月(翼月)
   ・「大倭帯日子国押人」……「AB」(室之秋津島宮)→秋八月(室月)


 注目すべきは、「天押帯日子」(春日臣などの祖)と「大倭帯日子国押人」(室之秋津島に宮都を置く)の兄弟である。兄弟の対が春秋の対に照応するように構成されている。したがって、「春日臣」に「春二月」(翼月)が照応する。ここで二十八宿の【牛】が「広国押建金日」(安閑天皇)ならば、【翼】は「伊邪本和気」(履中天皇)だから、結局、「春日臣」に「伊邪本和気」(履中天皇)が照応するということになる。


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 然るに、「袁邪本」(上述の通り、語構成は「袁・沙本」と見てよい)の系譜記事に戻ってみれば、その母の「沙本之大闇見戸売」(闇は日下に通じる。今回この点は論じない)は「春日建国勝戸売」の娘である。「袁邪本」の系譜(即ち「沙本」の系譜)は、古事記において、まず「春日」から説き起こされている。


   朕子麻呂古、汝妃之詞、深称於理。安得空爾無答慰乎。
   宜賜匝布屯倉、表妃名於萬代。(日本書紀継体天皇八年)


 一方、日本書紀(巻十七・継体天皇八年)に目を向けると、「匝布屯倉」(匝布は沙本に同じ。ともに音仮名表記)を賜うことが「春日皇女」の名を萬代に表すことになる旨の記述が見られる。「春日」の訓みの一つに「サホ」が有ると考えれば、最も理解しやすい。「春日臣」(サホ臣)に照応するところの「伊邪本」は、やはり「沙本」という語の変化形(ないし派生語)と捉えるのがよかろう。


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 ところで、「秋八月」(室月)はセム系の文化圏の「AB」に、「春二月」(翼月)は「ΣBΘ」に当たる(2009-08-21の記事を参照)。古事記に、「沙本毘売命、亦名佐波遅比売」とある。件の「沙本」が「春日臣」に通じ、「春二月」(翼月)に通じるとすれば、この「佐波遅」は「ΣBΘ」の音仮名表記かもしれない。あるいは掛詞と見るべきか(一次的に示す語が他にある可能性は当然ながら残る)。


 (追記) 2009-06-21の《「沙本」(ܫܚ)と「佐波遅」(ܣܗܕ)》の稿を参照されたし。既に「佐波遅比売」の「佐波遅」は「SHD」と見られることを述べている(こちらの方が音形が合う)。尚かつ「ΣBΘ」という語も想起されるということである。

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於姓「日下」謂「玖沙訶」(ܚܫܘܟܐ)

 古事記において、「闇」という文字は、10箇所に出てくる。そのうちの3箇所は、「天石屋戸」の場面(天照大御神が天石屋戸の内に隠れる場面)であり、残りの7箇所は、実のところ固有名詞中である(以下に列挙)。


  【上巻】天之闇戸神国之闇戸神闇淤加美神闇御津羽神闇山津見神
  【中巻】沙本之大闇見戸売
  【下巻】なし


 古事記中、「闇」を含む神名が5つ。「闇」を含む人名が1つ。つまり、古事記に登場する人間で、名前に「闇」を負うのは「沙本之大闇見戸売」のみ。少なくとも人間の範囲では、「闇」と言えば、「沙本之大闇見戸売」なのである。このことは重要だろう。その「沙本之大闇見戸売」の子の「沙本毘古王」が、「日下部連」の祖とされるからである。古事記というテクスト上、「闇」の子が「日下部連」の祖とされるのである。


  ・《母》 沙本之大闇見戸売……「闇」を含む唯一の人名
  ・《子》 沙本毘古王……日下部連・甲斐国造の祖


 古事記の序文に、「亦、於姓日下謂玖沙訶、於名帯字謂多良斯、如此之類、随本不改。」とあることから、「日下」は「玖沙訶」と訓む。一般に、この「玖沙訶」は倭訓と捉えられる。しかし、「クサカ」という倭語は知られていない。
 その一方、シリア語の「XΣWKA」には「dark」(adj.)や「darkness」(n.)の意味がある。「玖沙訶」という音仮名表記は、「XΣWKA」に対するものである。そう考えてみると、「闇」(XΣWKA)の子が「日下部連」という系譜上の位置づけも非常に合点が行くだろう。


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(補足1)
 「天石屋戸」の場面を見ると、まず地の文に「高天原皆暗、葦原中国悉闇。」とあり、その後、発話文に「因吾隠坐而、以為天原自闇、亦葦原中国皆闇矣、」とある。訓字として「闇」と「暗」は通用されており、これらは「dark」(暗い)の意味と見てよかろう。


(補足2)2011年5月5日
 上代文学の学問分野で、雄略記に出てくる「日下」が何処かということが問題になっている。いわゆる日下越えが、どのルートかという問題である。暗峠(くらがり峠)を越えると、現在の枚岡神社のあたりに出て、現在の日下には出ない。しかし、そもそも「暗」は「XΣWKA」(日下)と訓める。暗峠は日下峠なのだ。したがって、このルートが日下越えと考えてよい。此処からならば、「シキ」方面の古墳がギリギリ見える(実際に見て確かめた)。


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舒明天皇の和風諡号について

 古事記推古天皇帝紀的記事で終わっており、舒明天皇については敏達天皇帝紀的記事中に「坐岡本宮治天下之天皇」と出てくるに過ぎない。しかし、日本書紀によれば、舒明天皇の和風諡号は「息長足日広額」であり、名前に「息長足」(息長帯に同じ)を含む。さしあたり月宿の並び順と天皇の並び順の対応から言えば、その舒明天皇は【婁】に当たる。


   ・【室】(A=2)……安寧、用明
   ・【壁】(B=3)……懿徳、崇峻
   ・【奎】(G=4)……孝昭、推古
   ・【婁】(D=5)……孝安、舒明(息長足日広額)


 さて、【婁】に当たるシリア語のアルファベットは「D」だが、その「D」も「AB」も数価は「5」である。だからこそ、「AB」(セム系の文化圏における月名の一つ)であるところの「室月」(秋八月)を念頭に置きつつ、【婁】に当たる孝安天皇の宮都が「室之秋津島宮」に作られる(8月21日の稿を参照)。
 ところが、「5」は「PMΘA」(ギリシャ語からの借用語)であり、「XMΘA」(品陀)に通じる。そうである以上、「品陀和気」の母が「息長帯比売」であるという事柄と、「PMΘA」に当たる舒明天皇が「息長足」を名に負うという事柄とは、大いに関係していると言わざるを得ない。

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「ܐܒ」(秋八月)は「ܦܡܛܐ」(五)

 やや遡るが、6月20日の稿において、「品陀和気」の「品陀」は「XMΘA」(瘤を意味する)の音写であり、数字の「5」を意味する「PMΘA」(ギリシャ語に由来するシリア語)との掛詞であることを述べた。その一方、仮に「A=2」のシステムが働いているとすると、「AB」(秋八月)の数価は「5」である。即ち、「AB」(秋八月)は「PMΘA」である。


   又、息長帯比売命を娶りて、生みし御子は、品夜和気命。次に、大鞆
   和気命、亦の名は、品陀和気命。此の太子の御名を大鞆和気命と
   負せし所以は、初め、生める時に、鞆の如き完、御腕に生りき。故、
   其の御名を著けき。                      (仲哀記)


 さて、件の応神天皇の名前にまつわる説話においては、「XMΘA」であるところの「鞆の如き完」が「御腕」に出来ていた。故に、「大鞆」という名前を付けた。別名を「XMΘA」(品陀)と言う。概ねそのような説明である。これは、要するに「御腕」に「XMΘA」(瘤のようなもの)が在るという状況である。


   即ち、阿岐豆野に幸して、御獦せし時に、天皇、御呉床に坐しき。
   爾くして、蛧、御腕を昨ひしに、即ち蜻蛉、来て、其の蛧を昨ひて
   飛びき。是に、御歌を作りき。其の歌に曰く、
      美延斯怒能 袁牟漏賀多気爾 志斯布須登 (……中略……)
      多古牟良爾 阿牟加岐都岐 曾能阿牟袁 阿岐豆波夜具比
      加久能碁登 那爾於波牟登 蘇良美都 夜麻登能久爾袁
      阿岐豆志麻登布
   故、其の時より、其の野を号けて阿岐豆野と謂ふ。  (雄略記)


 ところが、「倭国」を「秋津島」と呼ぶことの由来譚においては、「爾くして、蛧、御腕を昨ひしに」云々と説明される。この場合、「蜻蛉」が来る直前までの状況は、まさに「御腕」に「蛧」が在るという状況である。ここで「蛧」が「AB」(秋八月)のシンボルとして登場していることは既に述べた(8月21日の稿)。
 つまり、前者は「御腕」に「XMΘA」が在る状況を描き、後者は「御腕」に(一瞬の出来事として)「AB」が在る状況を描く。このような古事記の描き方の前提には、「AB」は「PMΘA」という認識が存在するだろう。この認識は、取りも直さず、「A=2」という認識である。安倍晴明印(いわゆる五芒星)の意味合いは、此処に在る。シリア語のアルファベット、その数価が問題なのだ。

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古事記の「阿倍」について(1)

 既に「室月」(Bhādrapada)が「AB」(セム系の言語圏における月名の一つ)に当たり、これが日本で「秋八月」とされていることは述べた。その一方、そもそも「室月」という訳語は、満月の15日が【室】であるところの月(month)という意味である。月宿の【室】に当たるのは「A」だから、「室月」即ち「A月」である。ということは、「A月」が「AB」ということである。


   ・「A」(室宿)……「Pūrvabhādrapadā」(月宿の一つ)
   ・「B」(壁宿)……「Uttarabhādrapadā」(月宿の一つ)


 つまり、「A」が月宿(lunar mansion)を表す時は「Pūrvabhādrapadā」(室宿)を表し、「A」が月名(the name of month)を表す時は「Bhādrapada」(室月)を表すわけだが、「Bhādrapada」に当たるのが「AB」(これは月名の一つ)である以上、「A」の月は「AB」ということである。さて、ここで注目すべきは、古事記の「阿倍之波延比売」という人物だろう。その長女が「若屋郎女」と記されている。


   又、娶阿倍之波延比売、生御子、若屋郎女。
   次、都夫良郎女。次、阿豆王。   (継体記)


 古事記の中で「若屋比売」と言えば、他にも「倭飛羽矢若屋比売」がいる。「倭飛」という文字列からは、雄略記の本文中に「爾、蛧昨御腕、即蜻蛉来、昨其蛧而飛」とあり、歌謡中に「夜麻登能久尓袁 阿岐豆志麻登布」(倭の国を蜻蛉島と言う)とあることが想起されるが、この説話は実のところ「AB」に言及するものであった(8月21日の稿を参照)。


   師木津日子玉手見命、坐片塩浮穴宮、治天下也。
   此天皇、娶河俣毘売之兄、県主波延之女、阿久斗
   比売、生御子、(以下略)          (安寧記)


 それよりなにより、「阿倍之波延比売」と名前が共通する「県主波延」が先ず安寧記に出てくる点は見逃せない。古事記の人名中、「ハヱ」は「蝿」に作られることもあるが、音仮名表記の「波延」は、この二者に限る。安寧天皇に当たるのが他ならぬ「A」であってみれば、古事記において「波延」は先ず「A」に関わるものとして提示されているのである。その場合は当然ながら、「阿倍之波延比売」も「A」に関わると見なければならない。


   ・「A」に当たる天皇の父は「建沼河耳」(神沼河耳)
   ・「阿倍臣」などの祖は「建沼河別」


 しかも、一方において「A」に当たる安寧天皇の父は「建沼河耳」(神沼河耳)であり、一方において「阿倍臣」などの祖は「建沼河別」である。即ち、「建沼河」という名前を媒介として、「阿倍臣」は「A」に当たる安寧天皇に関連づけられているのである。「阿倍」は「AB」の“読みの一つ”と考えざるを得ない。

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「布波能母遅久奴須奴」の「布波」は「ܚܘܒܐ」

 古事記応神天皇条の孤立系譜、「又、堅石王之子者、久奴王也」に関して検討してきたが、とにもかくにも、「堅石王」は「石長比売」(恒如石而常堅不動坐)に比される存在であり、「久奴王」は「布波能母遅久奴須奴神」に比される存在である。「布波能母遅久奴須奴神」の母が「木花知流比売」であり、「石長比売」と「木花知流比売」は姉妹(ないし妹姉)の関係である。以上の事柄を図式化すれば、次のようになろう。


    ┏━石長比売(堅石王に重なる)
    ┃
    ┗━木花知流比売━━布波能母遅久奴須奴神(久奴王に重なる)


 そもそも「石長比売」(堅石王に重なる)には子供がいないが、妹あるいは姉の「木花知流比売」には子供がいて、その子供が「布波能母遅久奴須奴」(久奴王に重なる)である。こういう関係性がある中において、「又、堅石王之子者、久奴王也」という系譜記事がどのように機能するかと言えば、要するに、「石長比売」と「布波能母遅久奴須奴神」が親子のような関係(親子のように近しい関係)であることを言っているのである。


   ・【室】は「A」(愛比売)……宮都は「片塩」(堅石)の「浮穴宮」
   ・「布波、能、母遅、久奴、須奴」という神名は「久奴王」に重なる


 然るに、前稿や8月24日の稿で述べてきたことから、「堅石王」の「堅石」(岐多斯)は、安寧天皇の「片塩浮穴宮」の「片塩」(岐多斯)に全く同じである。存在するのは「キタシ」(キは甲類)という音形(語形)であり、「堅石」も「片塩」も借訓表記である。ならば「片塩浮穴宮」は「堅石浮穴宮」にも書ける。安寧天皇の宮都は「堅石」なのだ。その「堅石」の子が「久奴」であり、その「久奴」に重なるのが「布波能母遅久奴須奴」である。
 ここで注意すべきは、「布波能母遅久奴須奴」の「能」は助詞の「の」と見るのが穏当であり、したがって神名の構成は、「布波」の「母遅、久奴、須奴」と考えられる点である。「布波」は地名のようにも見えるが、さしあたり古事記に「不破」(美濃国)は出てこない。この「布波」は何だろうか。倭音化した時に、ハ行に写される可能性があるのは「H」「X」「P」だが、古事記において、「婆」が常に濁音で、「波」が常に清音かどうか、確定的には言えないところがある。外来語が絡む場合には、聴こえの問題もある。「B」も一応の候補と見るべきだ。


   兄八島士奴美神、娶大山津見神之女、名木花知流〈此二字以音〉比売、
   生子、布波能母遅久奴須奴神。            (古事記・上巻)


 ところが、宮都を「片塩」(堅石)に置く安寧天皇は、そもそも月宿の【室】に当たり、シリア語のアルファベットの「A」に当たる。その「A」こそ「愛比売」である。要するに安寧天皇は「愛比売」なのだ。その「愛比売」であるところの天皇の都が「片塩」(堅石)なのだ。その「片塩」(堅石)の子が「久奴」である。


   http://xwra.web.wox.cc/gallery/cate13-3.html


 この場合、「布波」の「母遅久奴須奴」という神名は、何らかの形で「愛比売」に繋がりを持っていると見なければならない。以上の考察を踏まえれば、「愛」(英語で言うlove)を意味するシリア語(あるいはアラム語)の「XWBA」が、「布波」の第一候補になるだろう。「木花知流比売」の子である「布波能母遅久奴須奴」の「布波」が「XWBA」(これも愛比売と書ける)だとすれば、「木花知流比売」は「愛比売」に縁があることになるが、「大山津見神之女」だから、「愛比売」(伊予国)に縁があるのは当然のことと言えよう。

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「片塩」も「堅石」も「岐多斯」

 月宿の【室】はシリア語のアルファベットの「A」である。即ち「愛比売」(伊予国)である。その【室】に当たるのが安寧天皇(師木津日子玉手見)と用明天皇(橘之豊日)である。「伊予」は「Y」の“一つの読み”であり、その「Y」の原義こそ「手」である。これは安寧天皇が「手」を名に負うことに見合っている。その安寧天皇の宮都が「片塩浮穴宮」(浮穴は伊予国の地名)だが、同じ【室】に当たる用明天皇の母が他ならぬ「岐多斯比売」(堅塩媛)であることに鑑み、「片塩」は「岐多斯」と読むべきである(以上は前稿のまとめ)。
 

   ・安寧天皇……宮都が「片塩浮穴宮」      ※浮穴は伊予国の地名
   ・用明天皇……母が「岐多斯比売」(堅塩媛)


 では、「堅石王」(古事記応神天皇条)についてはどうか。雄略紀に「堅磐此云柯陁之波」とあることなどから、一般に「カタシハ」と読まれている。「カタシ・イハ」>「カタシハ」と考えられ、特段の問題はないが、「カタシホ」(堅塩)の同語異形に「キタシ」があったのだから、「カタシハ」(堅石)の同語異形に「キタシ」があった可能性も否定できない。
 また、そもそも「カタシ」(堅し)という形容詞の語幹は「カタ」(堅)である。「石」の訓には「イハ」の他に「イシ」がある。「カタ・イシ」>「カタシ」>「キタシ」という可能性もあろう。山口佳紀・神野志隆光両氏による新編全集は、宣化天皇の娘の「石比売」を「イハヒメ」と読む。一つの見識ではあろうが、従来説「イシヒメ」も命脈を保っている。古事記の「石」を悉く「イハ」と読むかどうか。


   ・「堅石王」……「石長比売」     :「大山津見神」の娘
   ・「久奴王」……「木花知流比売」  :「大山津見神」の娘


 それよりなにより、8月24日の稿で述べた通り、「堅石王」の子は「久奴王」であり、その「久奴王」は「布波能母遅久奴須奴神」にリンクしている。「久奴須奴神」の母の「木花知流比売」は「大山津見神之女」である。また、「堅石王」の「堅石」は「石長比売」の効用(使った場合に得られる効果)であり、その「石長比売」も「大山津見神之女」である。「大山津見神」の鎮座する場所に関し、古事記は何も記していない。しかし、伊予国風土記逸文、あるいは社記などによれば、古くから「三島」の神様と考えられてきたことは明らかであろう。結局、「伊予国」の「三島」の「大山津見神」は「石長比売/木花知流比売」の父であり、それ故に「堅石王/久奴王」に繋がる存在なのである。
 然るに、8月22日の稿で述べた通り、丹塗矢に「富登」を突かれるのは「三島湟昨之女」だが、「美富登」に御陵があるのは「玉手見」(安寧天皇)である。その「玉手見」の「手」が「Y」(伊予)であってみれば、「三島湟昨」の「三島」は「伊予国」と見るしかない。その「伊予国」の「三島」に古くから現在まで祀られているのが「大山津見神」である。件の安閑天皇は自身が「愛比売」(伊予国)であり、尚かつ「富登」を介して「三島湟昨之女」に繋がりを持つ。その意味で「大山津見神」に浅からぬ縁を有するのである。
 以上を踏まえれば、「堅石王」の「堅石」について、これを安閑天皇の「片塩浮穴宮」の「片塩」と無関係とするわけにはいかないだろう。安閑天皇が「愛比売」(伊予国)なら、また用明天皇も「愛比売」(伊予国)である。その用明天皇の母が「岐多斯比売」(堅塩)であることに鑑み、まず「片塩」は「岐多斯」と読むべきだが、「伊予国」の「三島」の「大山津見神」に繋がるところの「堅石王」であってみれば、この「堅石王」の「堅石」も同じく「岐多斯」と読むべきだろう。


 [追記]上記の「カタシ・イハ」>「カタシハ」という説明は納得しやすいが、実は「カタシ」は終止形である。「堅い石」は「カタキ・イハ」であって、この場合、「カタキ・イハ」>「カタキハ」>「カキハ」と変化する。したがって、「カタシハ」に関しては、むしろ形容詞の語幹に名詞が後接する場合に挿入的子音が挟まれる形になる現象と見たほうがよかろう。即ち「カタ・イハ」>「カタ・s・イハ」>「カタシハ」>「カタシ」である。語尾の脱落に関しては、母音の無声化という問題のみならず、かつて閉音節が存在したかどうかという問題まで絡み、非常に難しい。広母音の無声化は、一般的には極めて少ない。

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